第三回 『私の屋外広告史』
昭和三〇年代前半の話ですが、私が小学生の頃住んでいた町は、旧八幡製鉄の近くという事もあって、小高い山まで住宅が建ち並びあばら家と新築の家が混在しており、通学路では民家の板塀や雑貨店の壁等に看板が付いていたのを見かけていました。
我が家は交差点の角地だったので、映画のポスターが貼られていて、幅が約600mmで縦が背丈程度のポスター板が取り付けられていたのです。一週間毎に張替えられるのですが、おじさんが自転車の後輪横に糊バケツを縛り付け、坂道を押して来ていたのを思い出します。ポスターの張替えは手際がよくて、瞬く間に貼り終り、しわがよっていたポスターも時間が経つとピーンと張っているのに、不思議な思いをしたものです。
貼付けが終わると映画の招待券を二枚程置いていくのですが、家族でよく映画を見に行ったのが懐かしく思い出されます。長谷川一夫や大川ハシゾウの時代劇で、お地蔵さんの横に四角柱で天辺が四角垂の道標がなぜか印象深く記憶に残っています。其の当時は映画が唯一の娯楽だったのです。近くのお寺でゲントウ会が始まると聞けば兄弟で駆けつけた時代の頃の話です。ゲントウ会とは紙芝居を大型にした画像を映写機で一枚ずつゆっくりと映し出し、お坊さんが弁士を勤めるのですが、小学生の私には夏場日没後の楽しみの夜で、今でも『月光仮面』や『赤銅鈴之助』が頭の片隅に残っているほどです。
昭和三〇年代半ば、我家が食堂を始めた時の事です。八幡製鉄に勤める職工の父が休みの日に看板を作ったのですが、器用貧乏の父が400mm×600mm程の透明な板ガラスを数枚買ってきて、習字の筆で『日の出食堂』と書き、それを裏返すと今度はペンキでその裏返った文字をなぞるのです。文字が乾くとその上から一面に白ペンキを塗り、最初に墨で書いた文字を念入りに洗い流すと、カンナがかけられ、ニスが塗られた木骨の枠に収められ、軒下の壁面に取付けられたのです。夕方になると、上から裸電球が入り、見事に行灯看板として活躍です。今にして思えば製鉄マンの父に、反転文字を書く看板屋の知識があったのが不思議でなりません。
昭和四〇年前後になると、コーラの看板が物凄い勢いで目に触れる様になってきました、都市部ではどこの交差点に立ってもコーラの看板が見えない場所は無いと云われた程です。東京オリンピックも開催され、日本中がラムネやアップルに変わって、コカコーラやペプシコーラとスポーツに沸き返ったのを高校時代に体感する事となりました。
昭和四〇年代半ば、私が二十二・三才の時に、メーカー代理店看板施工業者として事業を始めたのですが、その当時は食品から化粧品や厨房メーカー等の看板が賑わいを見せていて、私が小学生の頃父が作ったありふれた看板も木枠がスチールフレームに、ガラス板はプラスチックへと切替わっていました。
大阪では万国博覧会が開催され、三波春男の『こんにちは、こんにちは』や『お客様は神様です』と岡本太郎の『太陽の塔』が私の記憶に強く焼付いています。
昭和四十年代後半は住宅関連が活況を施し厨房から外壁材、屋根、サッシ、風呂、湯沸し各メーカーが工務店や建材店・金物店などに九尺袖看板を施工したのです。中でも記憶に残るのが永大産業で当時『永大ED工法』と表示され、テレビにも筋交(ハリ)のない壁工法で宣伝されていました、先日総合病院の泌尿器科の掲示板で勃起不能や勃起不良はED相談室へとあり、EDとは(ハリ)がなくなるのを言うのだなと一人合点したしだいです。
昭和五〇年代になると、損害保険の代理店看板が出始め、住宅関連から食品・自動車等あらゆるメーカーが自社製品取扱い代理店に、縄張りを主張するかの如く看板が取付けられたのです。代理店である小売業界の全盛期であったのかもしれません。代理店としてはメーカーからの無償看板を待ち焦がれ、工事に行った私たちに食事を御馳走してくれるやら、祝儀としてお小遣いを頂くやら大変有り難がられたものでした。
昭和五〇年代後半にはいり、各メーカーの宣伝活動が一段と激しさを増していき、規格の九尺袖看板もスチールフレームからアルミフレームへと変わっていきました。また、それまでの店頭販売が主流の化粧品で変化が起き、訪問販売のメーカーが六尺袖看板を、店頭ではなく個人住宅に取付け出したのです。時を同じくして、たばこの大型看板が都市部に媒体広告として現れ、始めは3m×4mのポスターボードを、タバコの販売もしていない場所に幹線道路沿いのビル壁面や、駐車場の一辺に宣伝広告として展開していったのです。私は自他共に認めるヘビースモーカーですがタバコの宣伝看板の効果に疑問を抱きつつも、当社にとっては最大の顧客となり「紙様」となりました。
昭和六十年代に入り、ポスターボードは次第に大型化し、6m×18mのボードまで出現したのです。たたみ一畳より大きな広さのポスターを60枚貼り合せて一つの図柄に仕上げるのですが、ジグソ―パズルと同じで1ピースのポスターでは、どの様な完成図柄なのか見当もつきません。
昭和から平成に移り変わるとき、昭和天皇崩御の際は、看板の消灯を実施し喪に服したのですが、都市部の夜景が数日間薄暗くなったのを覚えております。私も初めての体験に消灯日と点灯日に神経を使いましたが、おそらく看板業界にとっても初体験ではなかったのではないでしょうか。
其の頃出始めたあるメーカーのカッティングシートでの説明会を聞いてのことですが、要約するとマシーンで文字を切り不要な部分を取り除いてペンキ書きの代行をするとの事です。コンピューターの進歩と機械の精密さに驚かされ感動を受けましたが、五百万以上の値段には導入にためらわざるを得ませんでした、しかも文字によっては九割以上も不要のシートが発生し、もったいないが第一印象です。昭和二十三年生まれの私には親からの「もったいない」との教えが時として事業発展にブレーキをかけることに気付いた次第です。数年後にはパソコン付カッティングマシーンを導入していたのは申すまでもありません。
平成に入るとそれまでの常識が一つ一つ塗り替えられていったのです。五〇年前の小中学校の正門前は必ずと云っていいほど雑貨を兼ねた文房具店があり、文房具店には筆記具にパンや飲料の看板も共存していました。私が住んでいた町は、八幡製鉄・旭硝子といった職工さんを多く抱えていた企業でできた町のせいか、半径五〇〇mほどに酒屋さんが五軒,文具屋さんが三軒、化粧品店が二軒、雑貨店が十軒以上あり、映画館が四館もあったと記憶しています。映画館は昭和四十年後半には全て閉館となり、雑貨店は現在何軒が営業しているかは確認していませんが、ほとんどが閉店を余儀なくされているようです。私自身おにぎりはコンビニで買い、酒と文具はホームセンターで、又整髪料は家内が訪問販売で仕入れている様です。
私生活において看板に関するお店で昔から変わらないといえば、毎月通う床屋さん位しか思い当たりません。
現在ではホームセンター等の大型商業施設、やコンビニに取って代わられた小売店の数はいかほどになるのか?当然の事ながら、コンビニや大型商業施設、最近急速に伸びてきている通信販売には、文具や酒・パン・住宅関連など諸々のメーカー看板は取り付いてなく、代理店看板は町から消えつつあります。ちなみに文具関連では三菱鉛筆・ゼブラボールペン・ペンテル・コクヨ・トンボ鉛筆等はよく眼にした看板ではなかったでしょうか。東京オリンピックを前後に全国各地の道路が拡幅され、バイパス道路が出来ていきましたが道幅が広くなるにつれ、看板も大型化されていき、それに見合う様に、プラスチック板からテント生地の様なフレックスシートへと切替わって行き、非電照看板では亜鉛鉄板からカラートタンへ、今ではアルミ複合板へと次々と変化を遂げています。
二〇年程前までは、『字書きさん』と言ってペンキで文字やマークを書く職人さんがいましたが、パソコンの進化と共に今では『手書き文字』を見ることは出来なくなってしまいました。
トラックや商用車の文字書きは、『字書きさん』の仕事で、筆一本で商売をされている方がいたのです。
その昔看板屋は筆が必需品で、お弟子さんは使用後の筆洗いから修行させられたと聞き及んでいますが、現在では筆を使わない看板屋さんが大半ではないでしょうか。字が書けない看板屋さんなんて常識では考えられなかったのです。私はまったく字が書けないうえ同業仲間からは異業種と見られ、私自身も建設工事業と認識しておりましたが、現在ではデザイン部を設けることにより、堂々と看板屋を名乗れる時代になったのです。
平成十年の時代に入ると、今まで文字をカットし不要部分を取り除き素材に貼り付けて看板として仕上げていたのが、インクジェットに取って代わろうとしていて、フイルムカットでは不可能な小さい文字やグラデーション処理は勿論のこと、写真を拡大表示もできて、屋外における耐色性能も既存のものと遜色なく競え、看板業界に変革をもたらしています。
今後屋外広告がどの様な変化を遂げるのかは楽しみではありますが、私が想像するには、情報を必要としている方のみが視認でき、不必要な方や情報を与えるには適さない方には変わった見え方をする看板が現れるかもしれません。
携帯電話とインターネットを連動し、タバコの看板は、二十歳以上で喫煙者にしか見えず、コーヒーが飲みたいと思えば喫茶店やコーヒーショップのお店のみの看板が表れる、街並みの景観が気になる方には、建物の一部としか映らず見る方によって表現が変わる看板が、遠い将来出現するのではないでしょうか。
田辺父朗 |